HISTORY
大阪水上隣保館の歴史
社会福祉法人 大阪水上隣保館創設者中村 遙 のストーリー
大阪水上隣保館には、一所懸命頑張った人たちの温かいお話があります。
それは、遙先生の小さな一歩から始まりました。
1子どもたちを助けなければ
1931年、大阪港には、「はしけ」と呼ばれる小さい船で生活する貧しい人たちが、たくさんいました。
子どもたちは、毎日おなかをへらしていました。
もちろん学校へも通えません。
それどころか、船の近くで遊んでいるうちに、海に落ちて死んでしまう子どももいました。
2〈遙先生の最初の一歩〉何か私にできること
みんなを学校に通わせたい、みんなが安全に暮らせるように_。
教会の牧師だった中村遙、八重子夫妻は、目の前の子どもたちを救いたい一心で、「大阪水上隣保館」をつくって一緒に暮らし始めました。
子どもたちは暖かい部屋や食べ物も用意され、学校へ通えるようになりました。
3山崎の天王山に子どもの楽園をつくろう
その頃、日本は戦争の真っ只中。空襲により「大阪水上隣保館」も全焼してしまいます。
「いったいこれからどうしたら、、、」
途方に暮れる遙先生のもとに、
「天王山を切り開いて子どもたちの楽園をつくろう!」とたくさんの人が集まりました。
多くの人の汗によって、山が切り開かれ、最初の子どもの施設が完成しました。
戦争で家族を亡くしたり、被害にあった子どもたちも一緒に暮らせるようになりました。
4子どもに寄り添い、共に生きる
27歳で大阪水上隣保館を立ち上げた遙先生は、75歳で亡くなるまで、子どものために働き続けました。
「大阪水上隣保館」には、自分のためではなく、誰かのために一生懸命頑張った人たちの物語がたくさん詰まっています。